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借り物の美意識から、どう離脱するか。

  • 執筆者の写真: 松龍
    松龍
  • 4 日前
  • 読了時間: 5分

 写真教室に通っていたころのことを、時々思い出す。


 生徒はみんな、先生に褒めてもらいたい。だから宿題を持っていくときも、どうしても「見栄えのいい写真」「自信のある写真」を選ぶ。黒板に貼り出されて、まわりの受講生が「おー、うまい」と言う。すると、こちらも悪い気はしない。むしろ、ちょっと誇らしい。


 当時の僕は、あれを学びの成果だと思っていた。


 でも、ずいぶん後になってから気づいた。あのとき自分が撮っていたのは、自分の写真ではなかったのではないか、と。見たことのある写真を、上手に撮っていただけだった。世の中ですでに「良い写真」とされている型を、うまくなぞっていただけだったのだ。

 だから、同級生の「おー」という声がおわり、次の人の宿題になれば、その賞賛の賞味期限は終わり、自己満足は消滅する。


 もちろん、技術を学ぶこと自体が悪いわけではない。模倣から学ぶこともたくさんある。けれど、そのまま気持ちよくなってしまうと、少し危ない。なぜならその先にあるのは、自分の美意識ではなく、借り物の美意識だからだ。




借り物の美意識とは何か

 僕がここで言う「借り物の美意識」とは、自己の存在から湧き上がってきたものではない美意識のことだ。

 それは、幼少期からの体験や、土地の記憶、歴史、文化、身体感覚、そういうものの積み重ねから自然に育った感覚ではない。ましてや、自分のDNAに生き物として刻まれている生存に有利な情報を提供してくれる記号という意味なんて含んではいない。むしろ、広告や市場、教育や評価の仕組みの中で、「これが美しい」「これが良い」と繰り返し提示されることで、いつのまにか刷り込まれた価値観に近い。

 要するに、他人の欲望や社会の都合によって供給された基準を、自分の感性だと思い込んでしまっている状態だ。


 外から影響を受けること自体が悪いわけではない。人は誰でも歴史や文化や時代の空気の中で育つ。何にも影響されずに美意識を持つことなんて、たぶんできない。

 その影響を自分の身体で引き受けて、ちゃんと通過させて、自分の問いに照らしながら選び直しているかどうか。そこが大きい。そのプロセスを経ないまま、「これが美しいらしい」と丸ごと受け取ってしまうと、それは借り物になってしまう。


なぜ人は借り物の美意識に寄っていくのか

 これも、責めるような話ではない。むしろ自然なことだと思う。人は社会性のある生き物だから。褒められたい。失敗したくない。下手だと思われたくない。何を良いと思えばいいのかわからない。だったら、すでに正解っぽく見えるものを選んだほうが安心だ。

 写真教室でもそうだったし、今ならSNSでも同じことが起きる。「うまい」「きれい」「空気感がある」「世界観がある」と言われやすい見た目には、ある程度共通の型がある。人はその型を覚えて、そこに寄せていく。


 でも、その写真が自分の存在に深くつながっているかというと、話は別だ。


上手い写真と、自分の写真は違う

 これはあとからわかったことだけれど、見たことのある写真は、わりと上手く撮れる。

なぜなら、ゴールの形がもう見えているからだ。どういう構図ならそれっぽく見えるか。どういう光ならドラマチックに見えるか。どういう色なら雰囲気が出るか。だいたい想像がつく。そう、それは作業手順のようなものだ。


 借り物の美意識の中にいるとき、僕たちは「自分が何に反応しているか」よりも、「どう撮れば良く見えるか」を先に考えてしまう。すると、写真がだんだん納品物みたいになってくる。評価されるためのもの。理解されやすいもの。うまいと言われやすいもの。けれど、本当に自分の写真が始まるのは、たぶんそこから先なのだと思う。


では、どうやって離脱するのか

 僕は、自分の身体に根ざした「問い」を持つしかないと思っている。

 問いがないまま写真を撮ると、人は世の中に流通している答えのほうへ流される。見栄えがいい、褒められやすい、上手く見える。そうした汎用の価値に沿って、写真を選ぶようになる。

 でも、自分の中に問いが生まれると、判断の基準は変わる。うまく見えるかどうかではなく、その写真が自分の問いに触れているかどうかが大事になる。

借り物の美意識は他人の答えで作られる。自分の美意識は、自分の問いからしか生まれない。


 僕はそう思っている。


狭山茶

問いは、立派である必要はない

ここで言う「問い」は、別に賢そうである必要も、大きな思想である必要もない。

大事なのは、それが自分にとって離れられない問いかどうかだ。

たとえば、

・社会は多様性を推奨しているが、本当に自分は異なるものを受け入れられるのか。

・僕は、古城の石垣の美しさになぜ惹かれるのか。

・庭の山椒の木に毎年来る虫は同じ子孫なのか。

・僕はいったい、いつまで歩くことができるだろうか。


 こういう問いは、すぐに答えが出るものではない。でも、簡単に答えが出ないからこそ、何度もそこへ戻ってしまう。撮っても撮っても終わらない。だから写真の理由になる。 

 問いがあると、被写体の選び方が変わる。映えるから撮るのではなく、なぜか離れられないから撮る。褒められそうだから残すのではなく、自分の中に引っかかっているから残す。

この差は大きい。


自分の美意識は、問いと選択の積み重ねからしか生まれない

 結局のところ、美意識というのは、知識で飾るものではないと思う。生きてきた時間の堆積から滲み出てくるものなのだと思う。

 だから借り物の美意識から離脱するというのは、自分は何に引っかかっているのか。何に違和感を持つのか。何に何度も戻ってしまうのか。その問いを、自分の中で育てていくことだ。

 褒められる写真は撮れるかもしれない。でも、それだけでは自分の作品にはならない。

 自分の中に問いが生まれたとき、写真は提出物ではなくなる。そこからようやく、自分の美意識が育ち始めるのだと思う。


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