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2025年10月16日(木) ~ 2025年10月19日(日)
10:00~18:00(最終日のみ~16:00)

 Abox展2025 序文:「強度」ある眼差しをめぐって

 ここに並ぶのは、単に美しい写真の集合体ではない。一枚一枚が、作家から私たち鑑賞者へ向けて投げかけられた、沈黙の、しかし雄弁な問いである。本展覧会は、その問いを受け止め、自らの内なる声に耳を澄ませ、作品との知的な対話を始めるための場として開かれている。ここから始まる鑑賞体験は、静かな驚きと共に、私たちを深い思索の旅へと誘うだろう。

 Abox Photo Academyに集う作家たちは、写真というメディアを通して、世界をありのままに「写す」という行為に留まらない。彼らにとって写真は、自身と世界との関係性を、時に執拗に、時に優しく問い直すための実践の場なのである。ファインダー越しに見つめるその眼差しは、日常の断片から個人的な記憶、そして社会構造に至るまで、あらゆる対象へと向けられ、被写体との間に緊張感ある関係を築き上げていく。

本序文は、個々の作品の具体的な解説を目的とするものではない。むしろ、この多様な表現群を静かに貫く一本の哲学——本展覧会の核心をなす「作品の強度」という概念を解き明かし、鑑賞という旅路の羅針盤となることを目指すものである。

■ 「作品の強度」という羅針盤

 本展覧会を深く理解する上で、その根底に流れる哲学的指針である「作品の強度」という概念は、不可欠な鍵となる。これは、出展する作家全員が共有し、自らに課した創作上の極めて重要な目標である。

 本展が掲げる「作品の強度」とは、単なる視覚的なインパクトや技巧的な美しさではない。それは「観た人の心に残る度合い」と定義される。一過性の感動にとどまらず、「記憶に長く残る」こと、そして時には鑑賞者を「何か具体的な行動へと繋がる」力を持つこと。アカデミーが「美しさは消費されてしまう」という鋭い視点を提示するように、彼らが目指すのは、刹那的に消費されるイメージの奔流に抗う、永続的な価値の創造なのである。

 この「作品の強度」を追求するプロセスは、単なる情熱だけでは到達し得ない、厳しくも真摯な「作家道」そのものである。作家たちは、自らが世界とどう向き合うかという「テーマを構想する力」、その探求の対象である「モチーフへの造詣」、それを写真として具現化する「形にする力」、そして自身の探求を言語化する「説明する力」といった、厳しい規律を自らに課してきた。本展覧会に並ぶ作品群は、その求道的な実践の、ひとつの到達点を示している。

 そして、この「強度」を求める真摯な探求は、驚くほど多様な表現として結実している。作家一人ひとりの眼差しが、いかにして普遍的な問いへと昇華されていくのか、次章で見ていきたい。

■■ 多様な探求:パーソナルな眼差しから普遍的な問いへ

 「作品の強度」という抽象的な概念は、各作家の極めて個人的な視点を通して、具体的な写真作品として見事に昇華されている。ここでは、その多様なアプローチをいくつかの視点から横断的に考察することで、本展覧会が持つ多層的な魅力を紐解いていきたい。

■■ 時間と記憶の織りなす風景

 写真は、過ぎ去った時間を現在に呼び覚ます力を持つ。多くの作家が、時間、記憶、そして個人の歴史というテーマに深く分け入っていく。例えば、紅露氏は母の形見であるローライコードを手に、幼い頃の記憶が眠る真鶴の林に立つ。その行為は、300年の歴史を持つ保安林と母の記憶、そして自身の現在を、一枚の写真の上で静かに結びつける試みだ。また、Masayuki Morita氏が並べる「12 objects」は、人生を共にしてきたモノと自身の手を写すことで、触覚的な記憶の集積が「今の自分」をいかに形づくってきたかを物語る。松本香代子氏が捉えようとする「あったはずのもの」の気配もまた然りである。このように、彼らは個人的な記憶を単なる述懐に留めず、鑑賞者自身の過去と共鳴する普遍的な問いへと昇華させることで、「記憶に長く残る」という作品の強度を獲得している。

■■ 日常という深淵を覗く

 何気ない日常風景や個人的な体験もまた、作家たちの鋭敏な眼差しによって、世界の構造や人間関係の本質を映し出す深淵となる。池上陽久氏が雪の日の細いわだちに見出すのは、共に歩む人々の「距離感」という関係性の可視化である。柴光則氏にとって、幻の魚イトウを追う釣りは、「寂しさなしに孤独でいることができる、この世に残された僅かな場所」であり、日常から解き放たれた穏やかな時間の探求となる。伊藤楚笛氏が「お茶を飲む」という一瞬に見出すのも、水面に映る風景の向こう側にある「更なる問いかけ」だ。彼らの作品は、日常に潜む本質を掬い上げることで、鑑賞者に自らの日常を再発見させ、思索へと導く。これこそが、一過性の美を超えた、心に残り続ける「強度」の一つの形であろう。

■■ 世界との対話を試みる眼差し

 自己完結した表現に終わらず、写真を鑑賞者や社会への積極的な「問い」として提示する作家たちの姿勢もまた、本展覧会の重要な側面である。高崎勉氏は、白い卵という極めてシンプルなモチーフに、「生命の象徴」や「コロンブスへの回答」といった6つの異なる文脈を準備しながらも、敢えてそのタイトルを作品に併記しない。この情報の剥奪という行為こそが、鑑賞者自身の解釈を能動的に引き出し、「あなたにとって写真とは何なのか?」という根源的な問いを鋭く突きつける戦略なのである。松龍氏が、古代生物ハマロカリスを通して「現在我々は、多様性を許容できるようになっているのか」と問い、Ritsuko Matsushita氏が花たちの声を借りて現代社会を批評する視点も同様だ。彼らの作品は、完結した美を提示するのではなく、鑑賞者の思考を誘発し、社会的な対話を生む「具体的な行動へと繋がる」強度を志向しているのだ。

 これら多様なアプローチは、それぞれが「作家道」における真摯な一歩であり、鑑賞者自身の内なる思索を促す確かな「強度」を秘めている。そして、その力は鑑賞者の存在によって、初めて十全に解き放たれるのである。

■■ 鑑賞者への招待状

 本展覧会は、鑑賞者自身の参加によって初めて完成する。「作品は誰かに見せないと意味が無い」という言葉の通り、作家たちの探求と思索の結晶は、あなたの眼差しが注がれることで、最後の意味を与えられるのだ。作品は壁に掛けられた瞬間から、作家の手を離れ、私たち一人ひとりとの対話を待ち望んでいる。

作家の山本将也氏が「あなたがここから見出してくれた『輝き』を聞かせていただけたら嬉しいです」と語りかけるように、本展覧会の真の目的は、鑑賞者一人ひとりが作品の中から自分だけの意味や価値、すなわちあなただけの「輝き」を見出すことにある。ある作品は遠い記憶を呼び覚まし、ある作品は未来への思索を促すかもしれない。正解は一つではない。その発見のプロセスこそが、最も豊かな鑑賞体験となるだろう。

 願わくは、この会場で過ごす時間が、あなたの日常、そして世界を見る眼差しに、新たな「強度」をもたらすきっかけとならんことを。作家たちが真摯な探求の末にたどり着いた問いは、今や鑑賞者であるあなたの眼差しに委ねられた。その対話の先に、世界を新たな深度で捉え直す視点が生まれることを、ここに確信している。

横浜市民ギャラリー

会場案内図

桜木町駅東口からは送迎バスあり

こちらに詳細

https://ycag.yafjp.org/about/timetable/

出展作家一覧

池上 陽久
金川はるみ
篠原 雅人
眞理子
柴 光則
スズキジュンコ
松本香代子

臼田美穂
Ritsuko Matsushita

紅露 拓
おかやすみちこ
Masayuki Morita
谷 真吾
筧康史
マツイアヤコ
上田康晴
山本 将也

伊藤 楚笛
松龍
高崎勉

Abox展2025:アーティスト・ステートメント集

1. はじめに:作家たちの視座

 Abox Photo Academyが主催する「Abox展2025」へようこそ。本展は、単に完成された作品を陳列する場ではありません。それは、当アカデミーで探求される「作家道」—すなわち、出展作家一人ひとりが自身と世界との関係性を深く問い、写真という媒体を通してその思索の旅路を結実させた、真摯な表現の成果を披露する舞台です。

当アカデミーが一貫して追求するのは、作品が持つ「強度」です。それは、単なる視覚的な美しさを超え、鑑賞者の記憶に深く刻み込まれ、具体的な思考や行動へと繋がる力を持つ作品を生み出すことに他なりません。情熱だけでは、継続的に強度のある作品は製作できない。テーマを構想し、それを形にする技術を磨き、モチーフへの深い造詣を示し、そして自らの言葉で作品を説明する力。この一連のプロセスを弛むことなく繰り返すことで、作家は自らを磨き、作品の強度を高めていくのです。

 このステートメント集は、まさにその「説明する力」の結晶です。写真という非言語的なメディアの背後にある、作家たちのテーマ、個人的な理由(パーソナルリーズン)、そして制作に至るまでの葛藤や発見を解き明かすための重要な架け橋となります。言葉を手がかりに作品と向き合うことで、鑑賞者の皆様は、そこに写し出されたイメージのさらに奥深くへと誘われ、作家との静かな対話を始めることができるでしょう。

これから続くページには、20名の作家による多様な視座と言葉が紡がれています。それぞれの魂の軌跡に、どうぞご期待ください。

2. アーティスト・ステートメント

2.1 池上 陽久

 一緒に歩く

 

 たくさんの雪が降った日には、雪の上を誰かが最初に歩き、その後をまた次の人が歩き、それが繰り返されることで細いわだちが出来上がる。細いわだちでは一人が歩く幅しかないので、複数人で歩くときには横に並べない。共に歩くという行動が制限され、必然的に縦に並んで歩くことになる。そのときの、「一緒に」はそれぞれの関係性によって距離間が違う。縦に並んでも出来るだけ近くを歩く若いカップルがいる。少し離れた距離を保って歩く、長年連れ添ってきた夫婦もいる。一緒に歩く距離感に、関係性を垣間見ることが出来る気がした。その間隔は違っても、みんな一緒に歩いている。

2.2 金川 はるみ

 春祭りの音色の中で

 祭りの朝の穏やかな空気が そこには流れていた。 ずっと練習から見てきたからか 私も親戚の1人になったような 気持ちで見守っていた。

 今年も又、春祭りが始まる。

2.3 高崎 勉

 白に対する考察

 

 白い被写体を白い背景で思い通りに撮ることができるようになった時、私はプロカメラマンとして活動していく自信を得た。それは広告写真撮影の世界に足を踏み入れて、毎日のようにスタジオで光を追い続ける生活を始めてから7年後のことだった。 カメラの性能は日々進化し、撮ることだけであれば容易になった。しかしその被写体をどう捉え、何を伝えるかという文脈抜きでは表現とは言えない。 今回、私は白の象徴ともいえる「卵」をさまざまな文脈で撮影を試みた。展示作品の6点は全てテーマがあるが、ここでは敢えてタイトルとして作品に併記することをしない。

  • 存在感のある卵

  • アイコンとしての卵

  • 食材としての卵(玉子)

  • 生命の象徴

  • コロンブスの卵

  • コロンブスへの回答

 単なる自己満足ではない、誰かとコミュニケーションするための写真を撮ろうと常に心がけているが、あなたにとって写真とは何なのか?この作品がそれを語り合えるきっかけになればと願う。

高崎 勉

 

2.4 松龍

 ハマロカリスの休日

 僕が 1970 年代から始まる少年時代に、沢山浴びた日本のサブカルの一つに特撮がある。 放射線によって変態した生命体として東京に現れて人々を懲らしめる。「ゴジラ」は心の中に今も残っている。この作品は、戦後 80 年の平和を享受した自分とサブカルと「今」を混ぜて立ち上げた。 ロシア依存の石油を回避するためアメリカとカナダとで共同開発を始めた。日本海溝にあるメタンハイドレートから深海生物の 5 億年前に絶滅したとされるハマロカリスが爆発的進化を遂げて横濱に上陸して、人々と共存して、観光写真を撮っているという物語だ。 ハマロカリスは特殊な能力があり、時間の差分を可視化できる。ホモ・サピエンスには見えていない景色がみえている。 この設定のように、現在我々は、多様性を許容できるようになっているのか。それとも「ゴジラ」のように攻撃して排除するのか。あなたはどう思いますか。

松龍

 

詩:「3 分間のまばたき」

作詞・作曲:松龍

歌:Matriya

 

漆黒に近い青の底

止まったような世界で

時の粒だけを視ていた

メタンの氷が溶けるまで

 

三分間の瞬きが

五億年の旅路を越えた

ここは光と音に満ちる場所

潮風踊るウェディングシュート

僕の休日は始まったばかり

ファインダー越しの新しい世界

 

くじらの背中に立てば

赤煉瓦から歌が響く

幸せになれるというシルシに

見知らぬ人が列をなす

僕の眼にはどう映るだろう

三分間の瞬きが

五億年の旅路を越えた

ここは願いと夢に満ちる場所

JACK, QUEEN, AND KING

僕の休日は戸惑いながら

時の差分を焼き付けてゆく

 

深海の静寂が

まだこの身には馴染んでるのに

急ぎ足のホモ・サピエンス

君たちの「今」は速すぎる

 

三分間の瞬きが

五億年の旅路を越えた

ここは僕が生きる未来なのか?

ランドマークを見上げながら

横浜の風が染みこむ日まで

深海よりいずる我が名は

ハマロカリス

 

2.5 篠原 雅人

 神の雫に導かれて — メドック 42.195km の旅

 一冊の漫画が、私をメドックの地へと導いた。 『神の雫』第 24 巻。そこに描かれていたメドックマラソンの存在を知った 時、私はその場に立たずにはいられなかった。ワインという奥深い存在を通じて「人生とは何か」を問う物語に導かれ、2015年、私はメドックの大地を走ることを決意した。 メドックマラソンは単なる 42.195km のレースではない。シャトーを巡り、文化遺産に触れ、そこにいる人々と笑い合い、仮装で非日常を謳歌する、そのすべてが「人生の旅路」そのものだ。起伏の激しいところ、刻一刻と迫る制限時間。それらに翻弄されながらも、一歩一歩前へ進むことで「今、自分は生きている」と実感する。そして最後に辿り着くゴールは、ただのフィニッシュラインではなく、自分自身との対話の終着点なのだ。 すべての道のりが、非日常であり、日常である。そんなかけがえのない瞬間を、私はこれからもレンズを通して探し続けたい。

篠原 雅人

2.6 眞理子

 静かに満ちていく

 

目を閉じて

深い深呼吸を数回

余計なことは考えず

体の力を抜いていく

ゆったりと

しっとりと

優しい

包まれるような

浄化されていくような心地よい時間

いま、ここで、あなたと出会えたことに感謝します。

作家名 眞理子

 

2.7 柴 光則

 Stand by Me

 それは贅沢で無謀な旅だった。北海道の北部、奥深い山の中に存在する朱鞠内湖。わたしは大学のフィッシングクラブの大先輩と共に、幻の魚と呼ばれるイトウを求めてこの湖を訪れた。 しらじら明けの夜明けに湖へと船を出し、無数に点在する島々をまわり、夕暮れまでフライキャスティングを繰り返した。先輩が稀に見る凄上のフライフィッシャーであることについて私はよく知っていたが、大きなイトウの魚信を得るまでに丸一日を要した。 この魚は、結局、わたしが、彼が釣り上げるのを見た唯一の一匹であったが、わたしの眼に入ってきたのは魚そのものではなく、彼のフライフィッシャーとしての腕の冴えであり、日常から解き放たれた、穏やかな孤独の時間であった。 釣りというは、寂しさなしに孤独でいることができる、この世に残された僅かな場所であると私は思う。

柴 光則

 

2.8 スズキ ジュンコ

 黒い大地の時間線

 伊豆大島の三原山に真っ黒な大地がある。 噴火で全てがリセットされた大地は 太古の地球の姿のようだ。

まだ人が文明を築く前のゼロ地点。 今、目の前の黒い大地から分かたれた時間線は 無数の未来に繋がっている。

密かに脈動する赤い午後に 閃光に満ちた白い静寂に ゾルとゲルが揺蕩う枯葉色の狭間に あなたの時間線に繋がっていく。

 

2.9 松本 香代子

 空っぽの音を聴く

「 た し か に 見 た 」 と 思 っ た も の は す で に そ こ に は な く

淡い光の中で曖昧な線が交錯し無数の光が瞬いている。 あ っ た は ず の も の の 尻 尾 を 探 し 指 先 で 掴 ま え て み る とぼやけた視界の中から静かに浮かび上がるものがある。 記 憶 の 底 に 眠 っ て い た も の が 目 を 覚 ま す 気 配 を 感 じ て自分だけに聞こえる空っぽの音に五感を研ぎ澄ませる。 私の毎日は、そのようなことの繰り返しでできている。

松本香代子

2.10 臼田 美穂

 A Place In The Water

眩い闇から漆黒の光へ

水を得た魚のように

植物はめざす

臼田美穂

 

2.11 Ritsuko Matsushita

"Moderne Blumenmärchen" ― Modern Flower Fairy Tales ―

 この作品は、スイスの画家・詩人であるエルンスト・クライドルフの絵本へのオマージュである。 クライドルフは、幼い時に母から聞いた「どんな花も自分の顔を持っている」という言葉を忘れずに絵を描いたと言われている。彼が生涯に制作した25冊の絵本の多くは、花たちが擬人化されたファンタジーだが、絵は自然主義的である。 私が子どもの頃に持っていた他の絵本と比較すると話も絵もおとなびていたため強く印象に残っている。 クライドルフが創作活動をしていたのは 19 世紀末から 20 世紀初頭。 私たちの生活や話題は、その頃の人たちと大きく変わった。花たちの周囲もずいぶんと変わったはずだ。 私は、いつでも人のすぐ近くに存在している花たちのおしゃべりを空想しながらこの作品を制作した。 彼らは地球の急激な温暖化について、そして、いつまでたっても争いをやめない私たちについて話しているのではないだろうか。もしも私たちが彼らの言葉を理解できるのであれば、彼らはこの惑星に住む生物の先輩として私たちに語りかけてくるのではないだろうか… 人は、近しい人からのアドバイスには心理的に反発を感じるが、身近でない人の話には「新しい情報かも!」と関心を持ちやすいらしい。それならば人は、花たちが語る言葉になら耳を傾けるかもしれない。 なお、この作品はストックフォトで購入した現代のどこにでもある景色と人々の写真を使用して制作している。 ※Ernst Kreidolf(1863-1956)

Ritsuko Matsushita

 

2.12 紅露

 追憶の林

 ローライコードを手に、まだ夜の気配が残る真鶴のお林に立っていた。 この林の始まりは、約 300 年前。江戸の大火による木材需要に応えるため、当時ススキの原野だったこの地に杉が植えられたという。やがて林は海に栄養と木陰をもたらし、真鶴の海を豊かな漁場とした。それ以来、魚つき保安林として大切に守られてきた。 ここを初めて訪れたのは小学生の頃。磯遊びをせがんだ私を、母はホンダ・アコードに乗せて連れてきてくれた。当時はまだカーナビもない時代。母がどうやってここまでたどり着いたのか、今となっては不思議でならない。 母は、若い頃、兄たちに混じってローライコードを使い、暗室作業までこなしていたという。 真鶴のお林を、母と同じカメラで撮り、自ら現像し、焼き付ける。 母の形見のセコニック露出計が、時を超えて、母と私を静かに結ぶ。

 

2.13 おかやす みちこ

 競馬場へ行ったらば

 

 競馬場と言えば、赤鉛筆を耳に掛けたおじさんが新聞片手にお酒を飲んでいる・・そんなイメージをお持ちの方もいるかと思う。わたしはそうだった。 だけど赤鉛筆を耳に掛けたおじさんはほぼいなかった。 美しい馬と、カラフルな勝負服に身を包んだジョッキー。 そして応援する人々。 ゴール直前の歓喜と落胆、称賛と悪態、いろいろな感情が入り混じる瞬間。 実際に観戦するとテレビで見ていた世界とは全く異なる世界でした。 全てが思っていた以上に魅力的でした。 そして、あれから16年。今でも変わらず心が躍るのです。 週末、競馬に行ってみませんか?

 

2.14 Masayuki Morita

 12 objects as me

 人生の折り返し地点に立った今、これまで長くそばにあり続けたものを、あらためて手に取り直し、並べてみました。 今も毎日のように使っているものもあれば、出番は少ないのに、なぜか手放せずにいたものもあります。 人にはわからないような小さなこだわりや、気分で選んだもの、妙に捨てられない気持ち。そうしたものが積み重なって、いつの間にか今の自分を形づくってきたのだと思います。 それらに触れ、当たり前のように使用し、持ち続けてきたのは、いつもこの手でした。その感覚や記憶のひとつひとつが、今も自分の中に残っています。 そうした記憶をたどるように、手とともに物を写しました。これからも手にするものと共に、日々の記憶を少しずつ積み重ねていきたいです。

Masayuki Morita

2.15 谷 真吾

 竹に習う

 竹は内部が空洞であり、一見、脆そうに見える。しかし 風を凌ぎ雨に耐え、困難にあっても抗わず、しなり、決して折れない。 人間は過剰な情報と騒音で内面がいっぱいになり、ちょっとした事で折れてしまう事もあると思う。しかし心が「空」になるように努力して生活していけば竹のように強くなれるかもしれない。

谷 真吾

 

2.16 筧 康史

 東京を撮る人々

 少し前まではコロナで皆息をひそめ、街は静かであった。 そして、コロナが明け人々の生活が正常に戻り街は活気を取り戻した。海外からの観光客も沢山来るようになった。 世は SNSの時代。誰もがそこに来た証しを残すためにスマホを取り出して写真を撮っていく。 友人に何と旅の報告をするのだろうか。暑かった?人が沢山いた?きれいな街?古いものと新しいものがある街?美味しいもの食べた?お土産たくさん買った? そして何年かして写真を振り返ったとき、どんなことを思い出してくれるのだろうか。 沢山の写真と思い出を持ち帰ることを願いながら私はシャッターを押した。

筧 康史

 

2.17 マツイ アヤコ

 一瞬の、キセキ。

 一瞬一瞬を、濃密に生きてきて、 やがて、一瞬一瞬を、残しておきたくなった。

この瞬間は、二度とない、いま。瞬時に消えてしまうから。 でも、ファインダーの向こう側には、果てしない世界が広がっていた。

 自分だけがみえる光景も、自分だけが秘めた感情も。 思いのままに、そして、自由に、いくらでも創りだせることを知った。

 今回試みたのは、“写す”のではなく、“描く”を主軸にした心象風景。 2025 年、一度きりの 8 月。

去っていく夏の終わりをキリトリ、絵画のように閉じ込めてみた。 淡く、儚く、白昼夢のように曖昧で。けれど、軌跡として、印象を残すもの。

 まだ、踏み出しはじめたばかりだけれど、 私は、私だけの世界を、きょうも描写していく。

マツイアヤコ

 

2.18 上田 康晴

 煙雲

 正月行事に行った時のこと。 竹を燃やす数人の漢たち。その周りで竹を手に持ち、燃えさかる竹をただ立ち尽くして見守る人々。 馴染みのない慣わしだったので、まるで外国人が見ているかのような眼でその情景にやや呑み込まれそうになった。それに伴ってファインダー越しに自身のIdentityたるものを見つめ直していた。

 

2.19 山本 将也

 輝きの瞬間

 輝きとは何か。 思わず惹かれる瞬間。 振り向いてしまう瞬間。 ずっとそこにいたくなるような瞬間。

新しく、未来を描く起点。 懐かしくも、遠い過去の記憶。 理屈ではなく、心が反応するもの。 そこに見つける「輝き」は、自分の心の投影でもある。 何も「光」だけが「輝き」ではない。 あなたがここから見出してくれた「輝き」を

聞かせていただけたら嬉しいです。

作家名 山本 将也

 

2.20 伊藤 楚笛

 のむ

 お茶を飲むという 何気ない、一息ついた瞬間 水面に写しだされた風景の 更なる問いかけを味わえるのか?

作家名 伊藤 楚笛

 

 

3. おわりに

 本ステートメント集を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。作家たちの言葉を通して、作品の背後にある物語や思索の一端に触れていただけたことと存じます。

 この内面的な洞察を胸に、ぜひ横浜市民ギャラリーの展示会場へと足をお運びください。そこに広がるのは、言葉を超えた純粋な視覚体験の世界です。ステートメントによって得られた理解は、皆様が実際のプリントと対峙する際に、より深く、多層的な鑑賞を可能にするでしょう。

 写真がもたらす視覚的な衝撃と、言葉が喚起する内面的な思索。その相互作用の中から、皆様自身の心に響く新たな発見が生まれることを、心より願っております。

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