top of page
AboxExhibition_2026_DM_0427 (1) (1)_ページ_1.png

2026年9月10日(木) ~ 2026年9月13日(日)
10:00~18:00(最終日のみ~15:00)
横浜市民ギャラリー 2F
​220-0031 横浜市西区宮崎町26-1

Abox展2026 序文:「見えている世界」をめぐって

 ここに並ぶ作品は、同じ世界を写したものではない。

 私たちは同じ街を歩き、同じ光を浴び、同じように植物や家族や身の回りの物を見ている。しかし、その世界が誰にとっても同じように見えているとは限らない。記憶、身体、経験、失われたもの、受け継いだもの。それぞれの人生を通過することで、目の前の世界は異なる輪郭を持ちはじめる。

 Abox展2026に集まった作品を見渡すと、作家たちは写真を使って何かを「見せる」というよりも、自分が世界をどのように見ているのか、その認識のあり方そのものを差し出そうとしているように思える。

 本序文は、個々の作品を説明するためのものではない。多様な作品の間を行き来しながら、そこに通底するいくつかの眼差しを辿り、本展を鑑賞するための一つの入口を提示するものである。

■ 「見ること」を問い直す

 写真は長い間、現実を記録するためのメディアとして発展してきた。しかし、写真に写っているものと、私たちが「見た」と感じているものは、本当に同じなのだろうか。

 本展では、幼い頃にだけ見えていた小さな扉を、撮影した記憶のない写真の中に探す作家がいる。輪郭を失っていく自身の視界を通して、「なぜ私たちはそれを花だと思うのか」と問いかける作家もいる。

 そこでは写真は、現実を正確に固定する装置ではない。むしろ、記憶によって補われ、経験によって歪み、身体によって異なる「世界の見え方」を確かめるための装置となっている。

 見るという行為は、単純ではない。

 今年のAbox展を貫くひとつの問いは、ここから始まっている。

■■ 時間と記憶の織りなす風景

 写真と時間は、切り離すことのできない関係にある。

 瑞龍寺の木肌や光と影から、かつてそこを吹き抜けた風と数百年の時間を想像する。亡くなった人が残した衣服やオブジェ、植物に触れることで、不在となった存在と現在を結び直す。老いていく父を前に、人生の最後に自分が思い出すものを冬の林の光へ託す。あるいは、家族から受け継いだ着物にもう一度袖を通すことで、過去を現在の身体へと呼び戻す。

 ここで扱われているのは、懐古としての記憶ではない。

 過去は失われるのではなく、物や場所、身体の感覚の中に痕跡として残り続ける。本展の作家たちは、その微かな痕跡を手がかりに、現在と過去の間を往復している。

■■ 日常の奥に潜む、もうひとつの世界

 その眼差しは、身近な日常にも向けられる。

 コンクリートの隙間に根を張る植物。部屋の中で光や水と呼応しながら成長する一鉢の緑。午後10時の街。皇居を反時計回りに走る5kmの円環。そして、街角に立ち続ける自動販売機。

 普段なら見過ごしてしまうものも、ひとたび作家の視点を通過すると、別の意味を帯び始める。

 自然と人工は本当に対立するものなのか。都市の中で一人になることとは何か。同じ場所を繰り返し走る身体は、日常から何を削ぎ落としていくのか。そして、人間ではない存在から街を眺めたなら、私たちはどのように見えるのか。

 日常とは、何も起きていない場所ではない。

 注意深く見つめれば、その奥には世界を考え直すための無数の入口が開いている。

■■ 写真という境界を越えて

 本展をさらに特徴づけているのは、「写真作品」という枠組みそのものが揺らぎ始めていることだ。

 ある作品では、実際には存在しなかった「理想の夫」がAIによって生成される。そこに提示されるのは、過去の記録ではなく、「もし、そうであったなら」という実現しなかった記憶の可能性である。

 また、日本のアニメやマンガの文化的系譜を首都高速道路網へ重ね、一枚の巨大な認知地図として再構築する試みもある。

 カメラで撮影することだけが、世界を像として提示する方法ではなくなった現在、写真を出発点としてきた作家たちの表現もまた、その境界を越え始めている。

 重要なのは使用する技術ではない。

 その方法を使わなければ立ち上がらない問いが、そこに存在しているかどうかである。

■■ パーソナルな眼差しから、他者へ

 一見すると、本展の作品群に共通のテーマはない。

 家族、植物、都市、身体、着物、自動販売機、夜の散歩、アニメやマンガ。それぞれの作家が扱う対象も、その表現方法も異なっている。

 しかし、その出発点には共通するものがある。

 それは、作家自身が生きてきた時間の中で感じた、小さな違和感や記憶、執着、疑問である。

 Aboxで繰り返し問われてきたのは、「なぜ、あなたがそれを作るのか」ということだ。

 極めて個人的な経験から始まった問いが、作品として形を与えられたとき、それは作家だけのものではなくなる。「時間とは何か」「存在とは何か」「自然とは何か」「見るとは何か」「記憶とは何か」。

 小さな私的経験の奥から、他者もまた考えることのできる問いが立ち上がる。

 そこに、作品の「強度」は生まれる。

■■ 鑑賞者への招待状

 作品に一つの正解はない。

 作家が作品に込めた問いと、鑑賞者がそこから受け取るものも、必ずしも一致する必要はない。

 むしろ作品が作家の手を離れたときから、そこには別の時間が始まる。

 ある作品から、自分の家族を思い出すかもしれない。いつも歩いている街の植物が気になり始めるかもしれない。夜の風景や古い衣服、自動販売機を見る目が、少しだけ変わるかもしれない。

 優れた作品は、必ずしも新しい世界を見せるわけではない。

 すでにそこにあった世界を、以前と同じようには見られなくする。

 Abox展2026で、それぞれの作家が差し出した15の眼差しと出会い、その先にある「あなた自身の世界の見え方」を見つけていただければ幸いである。

statement Song

Abox2026Abox
00:00 / 01:26

作詞・作曲:松龍

僕は自販機
飾らぬ光のなかに佇む
私は扉を探しています
よる散歩ノススメ

 

ほころびほろび、ほころりよ
ほころびほろび、ほころりよ
時間の考古学
最後に思い出すもの

 

Wildness in the City
都市の中にある野生
袖を通す
トモニトワニ

 

ANTI-CLOCKWISE LOGIC
5kmの円環、思考のデバッグ

 


An ideal husband
最後に思い出すもの
私は扉を探しています
飾らぬ光のなかに佇む

 

ほころびほろび、ほころりよ
時間の考古学
袖を通す
トモニトワニ

 

僕は自販機
よる散歩ノススメ
Wildness in the City
都市の中にある野生

 

私は扉を探しています
私は扉を探しています
トモニトワニ
トモニトワニ

横浜市民ギャラリー

会場案内図

桜木町駅東口からは送迎バスあり

こちらに詳細

https://ycag.yafjp.org/about/timetable/

Abox展2026:ステートメント集

1. ステートメント

大塚栄二

An ideal husband

  

これらの写真は、AIで生成したものである。

  

父が他界して10年が経つ。

父は昔ながらの薩摩隼人であり、母は昔ながらの薩摩おごじょであった。

母は美容師として働ながら、家事の一切を行っていた。食事は父と私と妹が先に

食べ、母はそのあとひとりで食べた。幼い頃はそれを何とも思っていなかったが、

成長するに連れて違和感に変わって行った。

 

父はたばこの吸いすぎで肺の機能が低下し、起き上がることも困難になった。

もう両親とも80歳を超えていたが、母は美容師の仕事を続けながら父の介護を

していた。

父が亡くなったあと、母は心なしかホッしていたようにも見えた。

 

母は自分より他人を優先する。もっと自分を大切にして欲しい。

母は決して自分が不幸だとは感じていないようだ。でも、もし父に母への気遣い

がもう少しだけでもあれば、母はもっと幸せだったんじゃないかと、ふと思う

ことがある。

篠原 雅人

ANTI-CLOCKWISE LOGIC — 心拍がシャッターを切る

 

 ランナーの聖地である皇居には、「反時計回り(ANTI-CLOCKWISE)」という抗うことのできない厳格な規律が存在する。この逆回転の流れに身体を投じる行為は、加速しすぎた日常の時間を無理やり巻き戻し、システムに埋没して麻痺した心身を解体・再生させる「精神的デバッグ」である。

 5 kmの周回で肉体的限界(ピーク心拍)を迎えるとき、自らを縛り付けていた鎧(ロジック)は内側から破却されていく。そして最後の下り坂(半蔵門〜桜田門)を駆け抜ける瞬間、高心拍のまま視界が空や水と一体化する「整い」に到達する。

 この過程を、私は「撮る」ことができない。カメラを構えて狙った瞬間、それは体験ではなく観察に変わってしまう。だから私はシャッターを指から心拍へ渡した。

 心拍・パワー・接地時間だけを手がかりに、システムが「定まった瞬間」「最も苦しかった瞬間」「最も整った区間」を選び、像へ変換する。人の目による選別も、レタッチもない。9 枚は私が撮った写真ではなく、私の身体が 5 kmの円環に残した痕跡である。

 上から下へ、破却から整いへ。私の身体が通った浄化の過程を、あなたの視線で走り抜けてほし い。


眞理子

袖を通す

 

休日のある日、風を通そうと思い立ち、畳紙からそっと取り出して広げる。
成人前に両親が選んでくれた鶯色の訪問着。
臙脂の色無地の着物、そして譲り受けた帯。

最近は袖を通す機会も減ってきたけれど、久しぶりにゆっくり向き合う時間を作る。

細やかな刺繍、やわらかな光沢、しっとりした絹の質感に、「あぁ、やっぱり着物はいいなぁ」と思う。

少し背筋が伸び、心が静かに弾む。

これからもこの着物と過ごす時間を大切にしていきたいと思う。


スズキジュンコ

最後に思い出すもの

 

 90歳を過ぎても矍鑠としていた父が、2年前の病をきっかけに介護を必要とする状態となり、この1月に介護施設に入居した。囲碁に読書にと毎日を過ごしていた人が、全てできなくなり日々をただ過ごしている様子をみると、仕事柄、慣れ親しんでいたはずの『死』が違って見え、死に至る過程を具体的に想像するようになった。

 五感が削られていき、あいまいな世界の中で生きるようになった時、私は何を思い出すことができるだろうか。

 日本海側で育った自分にとって、関東の冬は光と喜びに溢れている。関東の冬の林は、その茶色の地面や枝に光のエネルギーをため込んで、生命に満ちているように見える。父にとっての囲碁や読書は、私にとっては園芸であり、植物の声を聴くことが何物にもまさる喜びだ。

 人生の最後に多くを忘れたとしても、冬の林とその光の中に身を置いたとき、それまでの人生で感じた喜びをその風景の光の中に、思い出すことができるのではないだろうか。


松本香代子

ほころびほろび、ほころりよ

-なぜ私たちはそれを花だと思うのか-

 

 人の眼は、無意識のうちに世界の中に輪郭を見い出し、意味を与え、名前をつける。だが私たちは、そこにあるものを本当に見ているのだろうか。何かがあるという認識によって、いつの間にか結ばれた仮の像を見ているだけではないだろうか。

その思いは、自分の見え方の変化につれて、より強くなっている。

 強度近視で視野欠損もある私が裸眼で見る世界には明確な輪郭がない。ものの気配は感じられても、何があるのかわからない。そんなときは、記憶の底から見覚えのある像を呼び出し、それらしい名前をつけ、何かを見たことにする。花なのか、石なのか、虫なのか。明確な輪郭を持たないそれは、何にでも化けることができる。

裸眼で見る世界と、眼鏡を通して見る世界。ぼやけた眼で覗くファインダーの向こう側。思うように見えないもどかしさとともに増幅されていく「見る」ことへの渇き。

 祈るように見つめる先で、見ているつもりの輪郭がゆるみ、ほころび、ほろび、そこからまた別の何かが立ち現れてくるその瞬間を待つ。

そのほころびの先には、どんな景色が見えるのだろう。

臼田美穂

緑のかたち、世界の輪郭 ーThe Place In: The Shape of Green, the Contour of the World

 

 

小さいころ、私は集合住宅に住んでいました。
庭はなくても植物と共に生活をしていた記憶があるのは、部屋の中やベランダに置かれた観葉植物の存在や、家で母が華道のお稽古をしていたことに関係があるのかもしれません。
水をきちんとあげていると部屋の中の植物も、生けられたお花も元気でいてくれるということを実感しながら、その生き生きとした形を毎日眺めていました。


大人になってからも家の中ではいくつかの観葉植物が育っています。歳を重ねるにつれ、茎や葉の緑に目を留めるようになったのは、花とは違う生命の営みを感じているからかもしれません。

部屋の中に置いた観葉植物は、その場に留まり続けながらも、窓から差し込む光を受け、空気や水と絶えず呼応し、生成を繰り返しています。静止しているように見えるその姿は、その環境との関わりの積み重ねによって形づくり、内部では日々何かが作られ、運ばれています。

 

その営みは、一枚の葉の色にも現れています。ここで見える緑は単なる色彩ではなく、外界との絶え間ないやり取りや目には見えない循環が可視化された一つの現象と言えます。

 

アンリ・マティスが植物というモチーフを色彩によって空間に解放したように、本作では緑を生命の象徴としてだけではなく、世界とのつながりを映し出すものとして捉えています。
一鉢の植物が部屋の中で見せる静かな変化は、私たちが共有する空気へ、地球へ、さらにその外側へと連続しています。

増えていくのは枝葉だけではなく、その内部に積み重なった時間と世界との関係です。

身近な存在を通して、わたしたちも無数のつながりの中で形づくられ、世界と呼応していることを想像するひとつのきっかけになれば、と思います。


Ritsuko Matsushita

私は扉を探しています

 

 しばらく前に、撮影データの中に記憶のない写真がいくつもあることに気づきました。視線より低い位置に焦点が合っているそれらの写真を見て、私は子どもの頃の記憶を思い出しました。

 当時の私は、思いがけない場所に小さな扉が見えることがありました。それは気づくとあり、目を離すと消えていました。

 通ろうと思えば通れると知っていました。しかし、「行ったら戻って来られない」と思っていて、見つけた時には見つめるだけでした。

 その扉は大きくなるにつれて見えなくなりました。

 撮影した記憶のない景色の中に、私は小さな扉を見つけていたのかもしれません。

 私は最近、その扉を探しています。

 もし見つけることができたなら、今度は扉を開けてみたいと思っています。

 

紅露 拓

密林|Wildness in the City

 

 私はしばしば大自然の中に赴き、写真を撮ってきた。そこには雄大な風景や、精巧な動植物の姿がある。
 人間による開発は、そうした自然のかたちをしばしば損ない、変えることから自然保護の必要性が唱えられている。
 しかし私は、都会の人工物のあいだにも、小さいながら確かな自然の美しさを見ることがある。コンクリートの隙間や壁面の湿りに、苔や雑草はいつのまにか根を下ろし、ふたたび野生の造形を立ち上げている。
 はたして人間は自然を破壊しているのだろうか?そもそも自然とは人間の活動を含めた、ずっと大きな営みなのではないだろうか?足もとの植物を見つめながらそんなことを考えてみた。


谷 真吾

飾らぬ光のなかに佇む

 

 梅雨空が織りなす柔らかな空気のなかで、花菖蒲は凛とした佇まいで天へと伸びる。
 まだ写真を始めたばかりのころ、撮影のために訪れた場所で初めてこの花を見た時、私は日本の原風景を感じていた。
 古くから園芸を愛する日本人が、いかに情熱を注いで品種改良を重ね、この花を慈しんできたか。その歴史が生み出した多様な個性には、瑞々しい生命の躍動と、人々の深い愛着が満ちている。
 それぞれの命が放つ揺るぎない美しさを私は感じることができた。


筧康史

僕は自販機

 

 

道端に立っていつも見守っているよ。
 
暑い日も寒い日も雨の日も雪の日も。
朝急いでいる時も夜遅く帰る時も。
一人の時も大事な人と一緒の時も。
楽しい時も不機嫌な時も辛い時も。

スマホばかり見ていないで周りを見てみて。
街には色んな人が溢れている。
過去や未来の自分が見つかるかも。

でもその前に1本飲んでいって。
 


マツイアヤコ

トモニトワニ

 何かにふれた瞬間、記憶がふっとよみがえる。そんな経験、ないだろうか。
 その基準はそれぞれだと思うが、ここに掲げたのは、いまはもうこの世界にはいない家族や友人が遺していった、私にとってはかけがえのないものたち。その一部を、特別でもなく日常でもなく、ふだんいちばん過ごすリビングの真ん中で、けれど、どこか非現実的な佇まいのなか、想いや祈りを捧げるような感覚で描写した。
 主が愛していたもの。ベッドのそばにいつもあるもの。何世代にも渡り新たな息吹を宿すもの。
 そっとしてしまっておくのではなく、ともに過ごす。どこかで思い出すのではなく、ともに歩む。肉体は消えても、存在は消えていかない。それは、いのちの痕跡であり、彼ら彼女たちとつながる接点でもあり、生きたかった人生をなぞる私自身の在りかたでもある。
 



山下弘

夜散歩ノススメ

 市街地が静けさ取り戻し始める午後10時、 私は、
20ワット電球が灯る薄暗い廊下の片隅に身を置いていた、幼年期の自分とリンクするように、 夜の光の中に立っている。


 小料理屋であった実家の廊下から襖一枚隔てた向こうには、昭和の男たちのどんちゃん騒ぎがあった筈だ。しかし私の記憶にあるのは、自分を包んでいた小さな光の輪と、ページをめくる音だけ。

静寂と仄かな光に包まれていたあの時間が、私の原風景だ。
 

 街灯やコンビニ・人の営みという安全圏に守られながら、誰にも邪魔されず、社会的な役割や繋がりから一時的に解放される。

 昼間とはうって変わった澄んだ空気の中で内省に浸る。夜の散歩は意外にも心地良い。

 あなたも一度、夜の帳に漂ってみては如何だろう。きっと新しい発見があると思いますよ。


山本 将也

いまを生きる

どの瞬間も、大切に過ごしてきた。

輝いていた時ばかりではない。
たくさんの感情を経験した。

始まりがあれば終わりがある。

それでも、いまを生きていく。
 


高崎勉

時間の考古学

 

 富山県高岡市、瑞龍寺。富山市出身の私にとって、ここは近くて遠い場所だった。国宝の山門や仏殿が静まり返るなか、まばらな参拝客に混じり、私は幸運にもこの空間と深く向き合うことができた。頬を撫でる風が、今さら訪れた私を揶揄うように吹き抜けたとき、ふと「風には寿命があるのだろうか」という疑問が湧いた。

 風そのものに生命はないのかもしれない。しかし、かつてここを吹き抜けた無数の風は、摩耗した木肌、積もった塵、揺らぐ光といった確かな痕跡をこの場に刻みつけている。数百年の歴史を湛えるこの空間で、私が捉えたのは光と影だが、それは同時に「時間」の堆積そのものでもある。私は、目に見えぬ風が積み上げたその「時間の地層」を、写真という装置で掬い上げようとした。

 写真教育の現場に立つ私は、常に「パーソナルリーズン(なぜあなたがそれを撮るのか)」という問いから出発する。本作を通じて、私自身もまたその課題と対峙することになった。現代のアートにおいて、作品は鑑賞者(社会)への問いかけであるべきだ。しかし、私にとっての「美」は単なる装飾ではない。それは「鑑賞者を問いの前に立ち止まらせるための強度」であり、抗いようのない力として介在すべきものだ。

 写真という生業を継ぐ者として、表現本来の美しさを置き去りにして何かを語ることはあり得ない。本作は、私のDNAに刻まれたその信念を、改めて世に問う試みでもある。

松龍

The Great Japonisme|路線図の読み方 r2.1.png
bottom of page