写真はなぜ楽しいのか?遊びの構造から作品制作まで解説
- 松龍

- 2 日前
- 読了時間: 6分
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から考える写真制作のよろこび
写真を撮っていると、よく夢中になって時間を忘れることがあります。光を待ち、立ち位置を少しずつ変え、被写体を何度も見つめているうちに、ふっと集注がきれて、気づけばずいぶん時間が過ぎている。
これは、どこか「遊び」に似ています。夢中で遊んでいると時間を忘れて、あっという間に夕方になることがある。写真を撮っている時にも、まったく同じことが起きます。時間を忘れる。周りが見えなくなる。目の前の世界に深く入っていく。
この同一性はなんだろうかと、気になっていたが先日、ふとしたことで、書棚から随分前に手に入れて積ん読状態だった本に書いてあった。
その書籍は、ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』である。
このの中で、著者は「遊び」を次のようなものとして定義し、ホモサピエンスは”考える人”ではなく、”遊ぶ人”だといっています。
遊びとは
自由である:強制されるものは本当の遊びではない
日常から少し切り離されている:特別な時間・特別な場所がある
ルールがある:自由だが、何でもありではない
緊張と喜びがある:真剣さと面白さが同居する
それ自体が目的である:何か別の実利のためだけではない
この定義を見て、「写真を撮影する」のと、「遊ぶこと」は、ほぼ同じなんだと。だから、撮影が終わったあとの、脱力感や満足感があるのかと合点がいった。
写真撮影には、自分で何を撮るかを選ぶ自由がある。カメラを向けた瞬間、いつもの場所が少し特別な場に変わり、網膜には非日常が展開される。構図や距離や光、あるいは自分で決めた制約というルールがある。被写体との緊張と、「これだ」と思える瞬間の喜びがある。そして何より、写真はしばしば、何かの役に立つ前に、撮ることそのものが楽しい。
だから写真は、もっと楽しくていい。人間の深いところにある、普遍的な遊びの力につながっている。私はそう思います。
遊びとは、人間の普遍性である
「遊び」というと、子どもがする、意味のない、取るに足らないもの、のように聞こえるかもしれません。けれど、人は昔から、遊ぶことで文化を構築してきました。競争し、真似し、歌い、踊り、儀式をつくり、言葉を磨いてきた。遊びは文化の外側にある余計なものではなく、むしろ文化の根にあるものです。
なぜなら、人はただ生き延びるためだけに生きているわけではないからです。試したい。夢中になりたい。工夫したい。誰かと分かち合いたい。そういう気持ちは、とても人間的です。遊びは、その人間らしさが形になったものだと言えます。
だから遊びの楽しさは、集中する楽しさ。うまくいくかどうかわからない緊張。できた時のよろこび。その少し深い楽しさこそ、遊びの本質なのだと思います。

写真が楽しいのは、遊びの構造を持っているから
写真が楽しいのは、偶然ではありません。ホイジンガの言う遊びの条件を、写真がほとんどそのまま満たしているからです。
まず、写真には自由があります。何を見るか、どこで立ち止まるか、何を切り取るかを、自分で選べる。同じ場所に立っていても、見えるものも、反応するものも、人によって違います。この「自分で選べる」という感覚が、すでに遊びの入口です。
次に、写真には日常から少し切り離された時間と場所があります。見慣れた道でも、カメラを持つと別の場になります。午後の光、ガラスの反射、壁に落ちる影、道端の小さなもの。ふだんは背景だったものが、急に前景に変わる。写真は、日常の中に小さな非日常を生み出します。
さらに、写真にはルールがあります。構図、距離、光、レンズ、タイミング。あるいは、自分で決めた制約でもいい。「今日は逆光だけ」「このレンズだけ」「同じ場所だけ」と決めることで、見ることはかえって深くなります。遊びがルールによって面白くなるように、写真もまた制約の中で濃くなっていきます。
そして、写真には緊張と喜びがあります。思うように撮れないことも多い。ちゃんと撮影しようとすれば被写体との緊張関係はさけられない。それは、風景であれ、動物であれ、人間であれ。そして、ふと「あ、これだ」と思う一枚に出会う瞬間がある。その時のよろこびは、ただ情報を残した時の満足とは違います。写真を撮る人なら、きっと知っている感覚です。
最後に、写真はしばしば、それ自体が目的になります。何かの役に立つからではなく、ただ撮ることが面白い。ただ見ることが面白い。ただ、世界が少しずつ違って見えてくることがうれしい。写真の魅力は、ここにあります。
だから、写真が楽しいのは当然なのです。写真は、人間にとってとても自然な遊びのかたちだからです。
写真は、人間が世界と遊ぶための方法かもしれない
ホイジンガの遊び論を通して見ると、写真は単なる記録でも、技術の競争でもありません。もっと根本のところで、人間が世界と関わるための、自然で普遍的な方法に見えてきます。人は、自由に試したい。日常の中に別の時間を見つけたい。ルールの中で工夫したい。緊張しながら夢中になりたい。そして、そのこと自体を喜びたい。
写真には、その全部があります。
だから写真は楽しい。しかもその楽しさは、軽い娯楽ではなく、人間の深いところにつながっています。よい写真作品とは、難しい顔をしているものとは限りません。むしろ、撮る人が本気で遊んだ痕跡があること。それが、作品の強さのひとつなのかもしれません。
写真は、もっと楽しくていい。そしてその楽しさは、決して浅いものではない。人間が人間らしく世界と向き合うための、大切な力なのだと思います。なのかもしれません。
ともかく、楽しむところから始めなければどこにもゆけないではないか。
しかし、遊びの中には鑑賞者はいない
ただ、ここでひとつ大事なことがあります。
遊びは、本質的に自分のためのものです。誰かに見せるためではない。評価されるためでもない。その場にいる自分が夢中になること、それ自体が目的です。
つまり、写真を撮っている時間には、基本的に鑑賞者が存在していません。ここに、ひとつの転換点があります。もし写真が遊びのままで終わるなら、それは自分の中で完結します。それはとても豊かで大切な時間です。しかし、それを作品として他者にひらくためには、別のステップが必要になる。
遊びを作品へ変える「設計」
写真を作品にするとは、遊びをやめることではありません。遊びを、他者に渡せる形に翻訳することです。そこで必要になるのが、「設計」です。Aboxではそれを PentaGuide として整理しています。
Personal Reason(なぜ自分が撮るのか)
Theme(何を問い続けるのか)
Motif(何を通してそれを表現するのか)
Rule(どのような条件で撮り続けるのか)
Style(最終的にどのような体験として立ち上がるのか)
遊びとしての写真は、自由で個人的です。しかし作品は、他者が体験できる構造を持っていなければなりません。なぜそれを撮るのか。何を問い続けているのか。どのような形で繰り返されるのか。それが整理されたとき、写真は単発の体験から、共有可能な体験へと変わります。
写真を「遊び」で終わらせず、作品にするために
この記事で触れたように、写真は遊びとして始まり、設計によって作品へと変わります。
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