昔話は苦手だけど、今回は遠い昔の話。
上京した僕は中野坂上にある写真学校に通っていた。バイトに明け暮れる生活だったので卒業時の単位はギリギリ。だけど商品撮影の道に進もうと選んだ「商業写真研究室」にだけは真面目に通っていた。
ゼミの吉村先生はStilllIfe(静物写真)の権威的存在。先生の作品を初めて拝見した時に衝撃を受け、僕の道は決定的なものになった。
先生に「撮るのが一番大変な物って何ですか?」と尋ねたら
「黒電話かなあ。あんなの仕事で撮れって頼まれたら逃げたくなっちゃう。」とのお答え。
この返事に僕は戸惑った。
現在では「黒電話」と言っても若い人には通じないだろう。(わからない方はググっていただきたい。)昔の電話機は電電公社から黒電話が貸し出される仕組みだった。誰もが想像がつく見慣れた物体なのに、あんなものがなぜ難しいんだろう?色だって無いんだから光を当てれば、どうにでも写るだろうに。
その考察をサボったまま僕は卒業し、フォトプロダクションにアシスタントとして入社したのだが、その日はいつものように上司のカメラマンがスタジオに入る前にセッティングを進めていた。被写体は赤と白のワインがそれぞれ1カットずつ。
特に考えを持たず、まず白ワインを設置してライティングを進めていたところでボスが入ってきて一言、「なんで白から撮ってんの?」
理由が述べられず困っていた僕に上司は「時間あるから、そのまま進めてみたら。」と。
そして白ワインの撮影は問題なく終わったのだが、同じセットに赤ワインを設置したところで、僕は大きなため息を漏らした。
置き換えた赤ワインのボトルの真っ黒な表面に、スタジオの天井やライトの形などが鏡のように映り込んでいた。
赤も白も写真が並んだ時に違和感がないように見えるライティングをする必要があるので、赤ワインのライティングだけを大幅に変えてしまうと揃わなくなる。
ボスはニヤリと笑みを浮かべ「じゃあ、一服してくるから頑張ってね。」と言ってスタジオを後にし、残された僕はセッティングを1からやり直したのだった。
その時脳裏に浮かんだのが吉村先生の言葉。
真っ黒で光沢のある被写体の難しさを実感した僕だったが、後でスタジオに戻ってきたボスが仕上げたライティングは惚れ惚れするものだった。
「難しいものほど、丁寧に光を当てれば美しさを増す。」写真を始めた早い段階で、それを学んだことが今の僕の支えになっている。
そして今、僕の目の前で商品撮影講座受講生のT君が黒い被写体を前に悪戦苦闘している。
昔の僕と同じ「気付き」を体験しているのだろう。
機材やレタッチソフトがいくら進化しても、ライティングの本質が変わることはないのだ。
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